発掘調査

北山窯跡の発掘調査

 北山窯跡は、瀬戸市の北部、落合町地内の丘陵地に所在していて、水野川右岸の標高170m付近の南斜面に立地しています。調査は急傾斜地崩壊対策工事における工事用道路造成工事の事前調査として実施し、連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)の一部と物原のほか、平坦面や通路状遺構を発見しました。
 窯体は丘陵の南斜面の末端部にあって比較的規模の大きな盛土上に構築されていました。窯体は連房式登窯の上方部分を検出しました。1房(室)の焼成室とコクド(煙り出し)とがあり、コクドから西煙道と東煙道を経て煙突へ至る構造で、窯壁は角クレで構築されていました。残存長5.2m、最大幅4.3mを確認しています。焼成室は部分的に残存していて、幅2.6m、奥行き0.9mまで確認でき、奥壁側には縦狭間構造の狭間が7ヵ所残存しており、狭間柱は角クレあるいは棚板で構築されていました。コクドは幅3.9m、奥行き1.2mまで確認でき、奥壁と右壁が残存していて右壁に出入口が付属し、奥壁の左右に煙道が接続していました。左側の西煙道は最大幅0.5m、奥行き1.7mで、高さ0.7mまで残存していて、窯体の中軸方向にほぼ直線的に伸びて煙突に接続していました。右側の東煙道は中央付近で幅0.35m、高さ0.4mの規模で、一旦中軸方向に伸び左(西)側へ屈曲して煙突に接していました。大半は角クレで構築されていましたが煙突の手前部分は2連の土管で、煙突の側壁に接続されていました。煙突は地下構造で内径0.75m、高さ1.1mまで残存し、壁面は角クレで構築されその外側からは石積みの壁が確認できました。
物原は窯体の斜面上方にあり大きく2層に分かれていて、上層は最大で1.2m、下層は0.8m堆積していました。
 平坦面は窯体の西側と北側にあり、西側は南北方向で4.0m、東西方向で2.5m、北側は南北方向で1.6m、東西方向で1.4mの範囲で、平坦面の一部を確認したにすぎません。
通路状遺構は現在の参道の下から確認された素掘りの溝を伴うもののほか、北西側へ分岐する階段状のものがあり、溝には自然石である花崗岩の石橋が架けられていて、最大幅1.2m、延長4.1mまで残存しています。
このように、北山窯跡の窯体は連房式登窯に煙道と煙突が接続する構造と判明しました。ただし、煙道や煙突の床下には物原が堆積していたことから、操業当初は窯体の上端部にコクドと呼ばれる煙道部(煙り出し)が付属する一般的な連房式登窯の構造でしたが、操業期間の途中に物原の上に煙道と煙突を構築して窯体の末端部を延長したものと思われます。また、南側崖面には焼成室の痕跡が残されており、複数の焼成室がさらに南側へ続くものと考えられています。
遺物は、製品では陶器の皿・蓋・片口・擂鉢・植木鉢、磁器の碗・皿・鉢・湯呑・水滴があり、窯道具では色見・匣鉢・匣鉢蓋・トチ・トチオサエ・棚板・ツクがあります。煙突下に残された物原には磁器が含まれていないこと、最終段階の物原には磁器製品のみ堆積していることから、煙突の構築は磁器の焼成とかかわる可能性もあります。少なくとも本窯の上部の房室では、当初は陶器が製造され、その後磁器生産に転換したものと考えられます。
本窯は明治34年に創業し、明治35年8月15日初窯火入れであったことが知られ、本地点の陶磁器製造工場は戦前まで稼働していたと言われていることから、本窯の操業期間は20世紀前半代と推定できます。

4区北壁土層断面(南から)
窯体完掘状況(南から)

一次窯2室外壁検出状況(南から)
窯体完掘状況(北から)

4区北壁土層断面(南から)
煙道・煙突完掘状況(南から)

4区北壁土層断面(南から)
通路状遺構検出状況(南から)