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発掘調査

卓ヶ洞2号・3号・4号窯跡の発掘調査

 卓ヶ洞窯跡群は、尾張旭市霞ヶ丘町中に所在します。尾張旭市と名古屋市守山区にまたがる守山丘陵の西端から南へ伸びる舌状丘陵に立地していて、西に名古屋市との市境、南の名鉄瀬戸線、東の東名高速道路に囲まれています。現在までに6か所の窯跡が確認されており、いずれも古墳時代の須恵器を焼成した窯と考えられています。尾張旭市内の須恵器窯は、卓ヶ洞窯跡群の他、城山古窯が知られています。
 発掘調査は、家庭菜園開発・分譲工事事前調査として行いました。事業区域内には、卓ヶ洞2号窯跡、3号窯跡、4号窯跡が存在する可能性がありました。この3か所の窯跡は、丘陵の先端部分に近接しており、東斜面に2号窯跡、南斜面に3号窯跡、西斜面に4号窯跡があります。2号窯跡は、昭和44年に発掘調査が実施されていますが、当時の実測図等の資料が現存しないため、再調査を行いました。3号窯跡と4号窯跡は、窯体の位置など詳細がまったく分かっていませんでした。平成26年3月に確認調査を行い、調査対象範囲を確定したうえで、平成26年6月から7月にかけて発掘調査を実施しました。調査面積は1,200㎡です。
 卓ヶ洞2号窯跡は、過去の調査において検出された窯体が、その当時のまま残っていました。そして、今回の調査により新たに分かったこともありました。燃焼室の奥に楕円形の土坑があったことです。これは「舟底ピット」と呼ばれるもので、製品を出し入れする際に、大型の製品などを運びやすくするために掘られたと言われています。窯体周辺については、過去の調査では対象とされませんでしたが、平坦な地形がみられたこともあり、精査を行いました。しかし、窯の操業に関わる遺構などは確認できませんでした。須恵器の形状からみて、7世紀前葉の操業とみられます。
 卓ヶ洞3号窯跡の周辺は、大きく地形が変化しており、事業区域内では南端に斜面が残るのみでした。ここを中心に調査を行ったところ、遺物の包含する土層を確認しました。このうち最下層は灰原(焼成に失敗した製品などの捨て場所)で、その上の土層は、二次的に堆積したものと思われます。いずれの土層も遺物の量は多くありませんでした。これは、窯本体から比較的離れた場所であることを表しています。斜面の向きからみると、窯体はここから北西側の事業区域より外に位置していたのでしょう。出土遺物の中には、須恵質の埴輪がありました。円筒埴輪(朝顔形を含む)が中心で、形象埴輪もみられましたが、すべて破片で全体形状の分かるものはありませんでした。6世紀中葉の操業とみられます。
 卓ヶ洞4号窯跡の周辺も、かなり地形が改変されていました。もともと推測されていた窯の位置も事業区域から外れており、調査の焦点も遺跡の一部がかかるかどうかにありました。調査の結果、やはり遺跡の痕跡はみつかりませんでした。遺物もわずかに出土したのみでしたが、その中に円筒埴輪1点がありました。4号窯跡は、須恵器の年代から3号窯跡とほぼ同時期の操業と思われますが、生産内容も共通していた可能性が高いといえます。
 卓ヶ洞窯跡群では、1号窯跡が6世紀中葉の操業とされています。つまり、本窯跡群では、6世紀中葉と7世紀前葉の2時期に窯が操業していたことになります。一方、城山古窯では、それより早く5世紀後葉に焼成が行われました。東海地方の須恵器生産は、尾張地域東部を中心に全国有数の窯業地へと成長した「猿投窯」が有名です。城山古窯や卓ヶ洞窯跡群の須恵器をみると、猿投窯のものと形状や製作技法が極めてよく似ています。また、舟底ピットは、猿投窯でも7世紀代の窯によくみられる施設です。これらのことから、尾張旭市内における3度にわたる短期的な窯の操業には、猿投窯の工人が深く関わっていたと考えられます。なぜこのような現象が起こったのかは分かっていませんが、そのカギとなるものの一つとして、埴輪があります。埴輪は、古墳に限定して使用されました。そして、守山丘陵では埴輪の出土した古墳が多く発見されています。どの窯で焼成された埴輪がどこの古墳に運ばれたのかが分かれば、古墳造営に関わった権力者と窯業との関係を解き明かす手がかりとなります。卓ヶ洞窯跡群における発掘調査の成果は、そのための重要な資料となります。

4区北壁土層断面(南から)
卓ヶ洞2号窯跡窯体図

一次窯2室外壁検出状況(南から)
卓ヶ洞3号窯跡出土 須恵器杯蓋

夕日5号窯跡806 最下面完掘状況(北から)
卓ヶ洞4号窯跡出土 円筒埴輪