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発掘調査

洞・東洞A窯跡の発掘調査

 2つの窯跡は瀬戸市東洞町地内に所在しています。平成24年度に、これらの窯跡が存在する山林の里山整備が行われることになり、それに伴って窯体の位置や規模も示す計画が立てられました。調査は、そうした情報を得るために対象区域内に23か所の小さな調査区(トレンチ)を設定して行われました。
 まず、洞窯跡では連房式登窯の窯体が良好な状態で残存していることが確認されました。部分的な調査のため窯体の全てを検出したわけではありませんが、一番手前の燃焼室(胴木間(どうぎま))と最も奥の煙道部(コクド)が確認され、それから推定すると全長25m、焼成室の数は12~13房の長大な窯体が存在していたことになります。窯内から出土した遺物はほとんどが染付磁器製品で、この窯の最終焼成品の内容を伺うことができます。また、洞窯跡の周辺には焼成に失敗した製品が捨てられた、物原と呼ばれる遺構が残っており、そこからは本業焼である陶器製品が主に出土しています。物原から出土した遺物は18世紀後葉まで遡る可能性があり、また最終焼成品である染付磁器は、19世紀第3四半期、つまり幕末~明治初頭に比定されることから、本窯の操業はおよそ100年にわたり行われたと考えられます。また、窯体の残る斜面と、物原が確認された場所の間には崖面があり、その断面を調査したところ、確認した窯体の下に別の窯が埋まっていることが明らかになりました。これらの窯が、ここで長い間窯業生産が行われたことを物語っています。
 一方、東洞A窯跡では窯体のほとんどが滅失していましたが、胴木間の基礎部分のみ確認することができ、それから復元すると、胴木間の全幅は推定8m、焚口は4つに分かれていたことが明らかになりました。胴木間が確認された平坦面には匣鉢や棚板といった窯道具で構築された排水溝も見つかっています。この他、本窯の周辺には現況で平坦な地形が所々にみられますが、これは「モロ」と呼ばれる、製品を作るための様々な作業を行った場所であり、調査ではその痕跡も一部確認しています。出土遺物から考えると、本窯の操業開始は、幕末~明治初頭で、その後1940年代に閉窯したと伝えられています。また、胴木間からさらに下の平坦面では、狭間穴が良好に残存する別の窯体が見つかっており、洞窯跡同様に本窯跡でも複数の窯体が今も眠っていることがわかりました。
 このように、この丘陵では、江戸時代から近代にかけて連房式登窯が連綿と操業を続けていました。東洞町は、かつて江戸時代には近世瀬戸窯最大の窯業地である瀬戸村に属し、その中でも洞嶋と呼ばれる地域でした。ここは、江戸時代後期に瀬戸に磁器生産の技術が持ち込まれ、他の嶋が磁器生産中心へと移る中にk、あって、伝統的な陶器生産を中心としていた地域でしたが、明治時代には次々と磁器生産へと転換する動きがみられ、明治45年の段階で陶器を生産するための連房式登窯6基に対して、磁器を生産するための古窯と呼ばれる窯体は103基あったとの記録も残っています。そうした状況を物語るように、明治44年発行の「愛知實業寶鑑」には、磁器製品の生産で賑わう洞の街並みを写した写真が掲載されていまが、その片隅に東洞A窯跡であろう連房式登窯の長大な上屋も写っています。街を悠然と見下ろす本窯の姿は、当時古窯を中心として活況を呈した、この地域の象徴の一つであったように思われます。