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発掘調査

若宮遺跡(若宮町3丁目130番地)の発掘調査

 若宮遺跡は、瀬戸市の南部、幡山区に所在する弥生時代から近世にかけての遺跡です。遺跡は、幡山区の東端部に位置する若宮町3丁目を中心に南北約500m、東西700mの範囲に拡がっており、矢田川左岸の沖積地もしくは河岸段丘上(山口谷)に立地しています。
本遺跡では、平成24年度に若宮町3丁目84番地点で初めて本格的な発掘調査が当財団によって行われ、古墳時代の土師器や須恵器が出土しています。平成26年度の発掘調査は、それに隣接する地点(3丁目130番地点)で実施されました。
 幡山区は、瀬戸市域でも屈指の古墳密集地域として知られています。その中で最も古いのは、矢田川と瀬戸川の合流地点に近い左岸丘陵端部にあった5世紀末葉の駒前1号墳です。発掘調査の結果、粘土槨を伴う一辺約14mの方墳であることが判明し、鉄刀や埴輪が出土しています。また、駒前1号墳のすぐ北側には、市域で唯一の前方後方墳である本地大塚古墳(残存長30.3m)があり、6世紀前半の造営と考えられます。6世紀中葉以降は、幡山区東半部の丘陵に古墳の造営地が移り、矢田川右岸には山口堰堤・高塚山・塚原・山口八幡の各古墳群が、左岸には川原山・広久手・吉田奥・宮地・南高塚山・吉田の各古墳群が7世紀中葉まで築かれます。この中には吉田奥2号墳や吉田2号墳のように、北部九州からもたらされたとされる独特の石室(竪穴系横口式石室)をもつ古墳があり、同じ石室が複数確認されている西三河地域との関連が注目されています。一方、古墳時代の集落は、沖積地最奥部の丘陵上にある吉田奥遺跡で、3世紀後半と5世紀後葉の住居跡や溝が確認されていますが、矢田川両岸の沖積地では、集落に関する遺構はこれまで確認されていません。 
 発掘調査は、3か所の調査区(計153㎡)を設定し、上面(新しい時代の生活面)と下面(古い時代の生活面)の2回に分けて行われました。上面は、全体に遺構密度が低く、目立った遺構としては溝1条(SD01)がみられる程度です。SD 01は、確認できた長さ16.75m、深さ20~30cmを測り、覆土内には多くの礫と須恵器を中心とした遺物が含まれていました。但し、底面に水が流れるような傾斜が付いていないこと、掘り方の輪郭がかなり不明瞭であることから、自然にできた浅い溝状の窪地と考えられます。この溝は、出土遺物から8世紀には埋没したと考えられます。下面の遺構は、ピット・土坑・溝状遺構が複数確認されていますが、明らかに人為的に掘削されたものはごく一部です。その中でA区SX101は、調査区の南西隅で部分的に検出された不定形の遺構で、確認できた規模は東西3.22m、東西2.52m、深さは最大42cmです。この遺構では、高杯等の須恵器や土師器、多数の角礫が出土し、角礫の中には被熱によって表面が赤くなったものが数点含まれていました。
 出土遺物は、古墳時代から飛鳥時代にかけての土師器と須恵器が中心で、その多くは遺物包含層から出土しています。まず土師器は、2世紀後半から3世紀前半(廻間Ⅰ式期後半~同Ⅱ式期)の資料が質量ともに最も充実しています。その内容は、この時期の尾張地域で多くみられるS字甕(口縁部がS字状に屈曲し、底部に台が付く甕)が極めて少なく、く字甕(口縁がくの字形に屈曲する甕)が主体となる点に特徴があります。他に高杯・パレス土器(赤色顔料や文様で器面を飾った土器)が一定量みられます。4世紀(松河戸様式期)から5世紀前半(宇田Ⅰ式期)までの土師器は、高杯とく字甕が主体で、やはりS字甕や同じ系統の宇田型甕はほとんどみられません。この時期には、畿内系の特徴をもつ高杯もごく僅かにみられます。以上のように、古墳時代の土師器の中にパレス式土器が一定量みられる点は同じ時期の尾張地域の遺跡と共通する特徴と言えますが、甕の中でく字甕が主体となる点や、微量ながら器面を叩いて調整した甕がみられる点は、隣接する西三河地域の様相と相通ずるものがあります。これらのことから、本遺跡における土師器の様相は、尾張地域と西三河地域の境界に位置し、山口谷から伊保川沿いの谷を通って西三河地域と容易に往来することができる当地域ならではのものと言うことができるのかもしれません。6世紀前半(儀長様式)以降の土師器は、平底の長胴甕が少量みられる程度ですが、8世紀代と思われる移動式竃(かまど)が1点だけ出土しており、これもく字甕などと同様に西三河地域で多くみられるものです。
 一方、須恵器は、6世紀中葉(H-61号窯式期)に急激に増加し、6世紀末葉~7世紀初頭(H-44号窯式期)に量的なピークがあります。器種としては蓋杯・高杯・壺・甕・甑(こしき)などがみられます。その後、7世紀前葉(H-15号窯式期)まで一定量みられますが、7世紀中葉(I-101号窯式期)には激減してしまいます。
 以上のような出土遺物のあり方は、同じ遺跡の3丁目84番地点のそれと大枠では一致しています。このうち、須恵器を主体とする6・7世紀代については、3丁目130番地点より標高が約1m高い3丁目84番地点で囲い込み遺構・溝・ピット等が検出されており、近くに当時の集落が存在したことを物語っています。また、2・3世紀代の土師器についても、破片があまり磨滅しておらず、原形を留める個体が若干量含まれること、調査区内に砂礫層等の流水性の堆積物がみられないことから、調査地点の近くで使用・廃棄された蓋然性が高く、やはり当時の集落がさほど遠くない地点に存在することを窺わせます。

4区北壁土層断面(南から)
A区SX01遺物出土状況

一次窯2室外壁検出状況(南から)
土師器 広口壺(古墳時代初頭)