■瀬戸染付について   About Seto Sometsuke  


染付山水図花瓶 伝加藤民吉作 瀬戸市蔵 「染付」とは、もともとは染織用語から派生した言葉で、やきものの分野においては酸化コバルトを含む顔料で磁器の素地(ボディ)に下絵付したものを指します。(広義では陶器素地も含む)

染付がつくられるようになった正確な年代はわかっていませんが、デビッド・ファウンデ−ション所蔵の一対の瓶(紀年銘至正11(1351)年)の完成度や1310年以降に沈没した新安沖貿易船の引き上げ品に染付が一点も含まれていない点などから考えて、14世紀前半代の中国でつくられるようになったと推測されています。

この頃の中国ではすでに白磁や釉下鉄絵がつくられており、染付がつくられる環境が整っていたと考えられます


 そして15世紀の大航海時代に入ると染付を含むたくさんの中国陶磁がアラビア商人を介して海上輸送により世界中に運ばれたと考えられており、今日でもそのルート沿いにはたくさんの中国陶磁が残されています。その中でも特に有名なのがトルコ・イスタンブールにあるトプカプ宮殿のコレクションです。

 中国の染付を手に入れた世界各地で、この美しいやきものを自国で生産しようとする動きが起こり始めました。日本国内では、17世紀初めに九州・有田地方において磁器の製造に成功しました。その後技術は急速に向上し、その品質は中国に肩を並べるほどになっていきました。

 そして17世紀中期には、明時代末期の動乱のために中国からの輸入が途絶えたヨーロッパ向けに、その代わりとして有田の磁器が盛んに輸出されていきました。これらのやきものはその輸出港であった伊万里津の名前を取って、伊万里焼と呼ばれるようになりました。

 一方、瀬戸では九州で磁器の生産が始まった17世紀以降、磁器の人気に対抗するため、素地をできるだけ白くした陶器に絵付を施すなど様々な試みがなされています。やがて、有田に遅れること約二百年後の19世紀初めには瀬戸でも磁器の製造に成功します。 そして、瀬戸の加藤民吉が九州から丸窯や柞灰(いすばい)の使用などを伝えたことで 瀬戸の磁器の生産技術は飛躍的に進歩し、以降、染付が中心となって瀬戸の発展を支えることとなりました。瀬戸染付の特徴は没骨(もっこつ)技法と呼ばれる主に 付立筆を用いて一気に描く方法で瀬戸を訪れた南画系の絵師によってもたらされました。


 明治時代盛んに行われた海外万国博覧会での瀬戸染付の評価は大変に高く、写実的に自然の文物を描いた文様はフランスで始まったアール・ヌーヴォーに影響を与えたともいわれています。

 しかし時代が移り、大量生産のための機械化・省力化が進み、石膏型による鋳込成形や銅版・プリントによる絵付などが発達したことによって、伝統的な瀬戸染付の技術は一時途絶えかけました。

 しかし近年の心の豊かさを求める傾向が強まったことなどにより、手作り・手描きのよさが再び評価されつつあります。そうした流れの中で、瀬戸染付に今後さらなる発展が期待されているところです。


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